大谷田上自治会

大谷田上自治会の歴史

はじまりは61世帯だった。

昭和28年12月1日、大谷田上自治会は発足した。

前身は氷川神社の氏子による氷川講という寄り合いであった。

大谷田上自治会の活動資料は、昭和29年11月からの記録しか残されていない。設立のいきさつや初期の活動については、今となっては知る手だてがない。

行く年月があり、来る年月があり、歴史は積み重ねられていくが、積み重ねられた歴史は掘りおこされないままに埋もれ、そして忘れ去られていく。

近隣の自治会の設立過程を調べると、そのやむにやまれぬいきさつや住む町への熱い想いに胸が打たれる。

神明仲町会は、くりかえされる水害に悩まされ、「土地改良工事や排水所の設置をしなければ安住な生活は出来ない」という町民の声を一つにして町会が結成された。その後も、生活生命線である橋の架け替えや、井戸水の枯渇問題を解決するために水道管の引き入れ計画など切実な状況に対応していった。

また蒲原自治会は昭和30年に設立されたが、町には一本の街灯もなく、カやハエはうなるほどいたが一滴の薬剤をまく者もいなかった。道路はできたが砂利すら敷いていない道で、雨が降ると泥沼のようになっていた。あれもない、これもないという悪条件のそろった町だったが、何とかお互い協力して、少しでも明るく住みよい町づくりをしていこうと町会の設立にのりだしていった。なけなしの財政から薬剤散布の噴霧器を買ったが、「苦労して、借金して、ほねをおって撒くより、業者にまかせろ!」という意見が会員から出た。しかし、自分達の住む町のことを、人にたよるようではいつまでたっても町はよくならない、という強い信念がそれを押さえた。住民自らが共同作業をすることにより、人間関係を深めていくという大事な理由があったのだ。「おかげさまで町はだんだん明るい方向に向かってきた。苦しいだろうがもう少しの辛抱だ。がんばってください。」と励まし続け、先頭に立って引っ張っていた人がいたのだ。

大谷田上自治会の初期の事業方針には公衆衛生強化、防犯防火対策が中心に据えられている。抱える間題はどこの自治会も同じで、設立のいきさつも共通するものがあるだろう。

カやハエやネズミの退治、日本脳炎、赤痢、チフス、コレラ、小児マヒなどの伝染病対策、保健衛生の啓蒙活動、保健部はフル回転の活躍だった。春から夏にかけての消毒薬散布は大変だった。意見の相違、不平不満、さまざまな不協和音を抱えながらも、たずさわった人たちはたくさんの汗を流したのだ。涙ぐましい格闘を続けてくれたのだ。

防火・防犯・防災は当初、社会部が受け持った。のちに厚生部、防災部へと統廃合していった。社会部は火災が起きると出動し消火に勤めた。消防署から感謝状をたびたびいただいた。台風の時は警戒にもあたった。大谷田はよく水に浸かった。昭和33年の22号台風は足立区の七割の世帯が水害にあった。

自治会が出来た頃は、町には灯りがなく歩くのもおぼつかないほど暗かった。毎年少しずつ街灯を設置していった。電球をこわされたり、スイッチをいたずらされたりした。そのたびに直した。電気代も支払った。少しでも明るく安心して歩ける町にしたかったのだ。

治安もよくなかった。青少年の非行も心配の種だった。野外映画会を開いた。球技大会も毎年企画した。地道な活動だ。足元から少しずつ良くしていこうと考えた。大人たちは真剣だった。健全な町、誰もが住みやすい町にしたかったのだ。

民生部。民生部こそ大切な組織だ、設立の翌年から敬老の祝賀会を毎年主催した。歴史の礎を築いてくださった長老の方々を敬い、福祉を考えることは何よりも尊いことだ。ある年は、大住学園の園児の劇や踊り、芸人による漫才や腹話術、婦人部の踊りや唄など多彩な催しが企画された。また民生部は、会員の家のご不幸に際して、会を代表して弔意を表し、お悔やみを申し上げる役目を受け持たれている。

町には大きなイベントが3つあった。夏の盆踊り、秋の氷川神社の祭り、そして春の桜まつりである。昭和30年代、中川堤の春は、桜の花と人の波であふれかえっていた。明治35年、当時の東淵江村の金子峯助村長の発案で500本の桜が中川堤に植えられた。常磐線の中川鉄橋から六木まで、実に4㎞にわたっていた。桜は地元の人たちの並々ならぬ丹精によって毎年大きくなっていったが、開花時の美しさはあまり世に知られていなかった。堤の両端に植えられた桜は、春爛漫と咲き誇り、その花のトンネルの中をゆっくりと散策する人々の顔は皆、にこやかで穏やかだった。第1回桜祭りは昭和29年だった。足立区の観光協会が主催した。ボナハイツ脇の堤の下の河川敷に舞台や湯茶接待所を設けて、近隣の町会の役員さんたちが総出で接待にあたった。にぎやかな、にぎやかな10日間の祭りだった。しかし桜の老朽化と水防上の理由から、桜祭りは昭和40年に取りやめになり、43年に桜は伐採された。これらの祭りは文化部や婦人部が中心となっていた。

今も昔も、町を支えているのは女性の力によるところが大きい。婦人部の設立者は昭和32年だが、それ以前から町の行事や世話事を裏方で支え続けていた。新生活運動の気運が全国に広がろうとしていた時代だった。古いしきたりや習慣から抜け出して、新しい生活様式を取り入れ、衣食住にわたって生活向上のために積極的に改善していこうという運動だ。婦人部の活動は、料理講習会、各種展示会、母の会、町内リクレーション、桜祭り、盆踊りと自治会に親睦の輪と活気をひろげていった。

自治会の役員の方たちの尽力には、ただただ頭の下がるおもいでいっぱいだが、一般の部員の活躍にこそ光をあてなければならないのかもしれない。あとのページに歴代役員の方たちを表記したが、そこに載せられなかった副部長、班長、組長、などの任にあたられた方々のご努力に敬意を表したい。一つの取組みには必ず、打ち合わせがあり、準備があり、実行、そして後始末、反省という一連の流れがある。その中で表面に現れるのはごく一部に過ぎない。自分の持ち場をしっかりと受け持たれた方々のまごころは、表に出ることはなく、気づかれることも少なく、忘れ去られていく。

わたしたちの町にはりっぱな先人たちがいた。身をけずり、財をけずり、ひたすらこの町を愛し、この町のために尽くした先人たちがいた。公の歴史書には名を残さなかったが、わたしたちの尊い宝である。『一隅を照らすものこそ、国宝なり』という最澄の言葉の通り、小さな町をいつも明るく照らし続け、陰になり、裏方にまわり、人知れず会を支え続けられた先人たちこそ、わたしたちの宝である。改めて、感謝とお礼を申し上げます。

大谷田町の起源

1.大谷田村の誕生

このあたり一帯はいまから5600年ほど前まで入海であった。入り組んだ海が広がり今とは大変ようすが違っていた。この入り組んだ海や川や台地の上に富士山や箱根火山の噴火で火山灰が降り積もり、利根川が押し流してきた泥が積もって陸地が広がっていった。少し高台になる伊興町からは弥生時代後期とされる土器が発見されているが、大谷田周辺では古い時代の遺物はほとんど出土されていない。

平安時代後期に現在の千住町あたりが武蔵国足立郡千寿村として誕生しているが、大谷田付近はまだ、海とも川ともわからない状態であった。しかしその後、利根川の沖積陸化は着実に進み、沿川に自然堤防を伸ばしていった。それとともに、少しずつ人々が入植を始め、住居を建て、湿地帯の水を川の細流などに排除し、掻上げの囲堤を設けて低湿田にした。その積上げ作業によって湿田の面積をわずかずつ増やし、ついには貧弱なものではあったが、定住できる基盤をつくりだしたのである。

そうした人々の労苦に満ちた努力がいつの日か実を結び、時代が戦国の世に入った頃、このあたり最初の集落、武蔵国足立郡大谷田村の誕生を見ることになった。そして、村の発展にともない、桃山時代に入った文禄元年(1592)には武蔵一の宮にかかわる氷川神社が祀られ、村人たちの精神的拠り所の役目を果たすとともに、村社会のかたちを整えるに至っている。

大谷田村ができたとはいえ、村はまだ河川の流れに身をさらすままの、まことに心細い未開の低湿地であった。江戸時代に入り、土地の生産力を高め増収をはかる新田開発が積極的に進められた。足立区全体も武蔵国足立郡淵江領として、開発の対象になったことはいうまでもない。この地に新田と名が付く村が多いのはそのためだ。

新田開発が一段落して新しい土地に村人たちが定住するようになると、次に問題となるのは、この新たな農耕の場の安定と整備を図るための治水と利水(灌概)である。地形的にこのあたりは常に洪水に見舞われる運命にあったばかりか、ひとたび洪水が起これば、一帯は水の底と化し、しかも、排水はままならず、長期間自然に水の引くのを待つしかない状態に陥る状況にあった。それでは当座の収穫はもとより、開発の苦労さえも、文字どおり水泡にきすことになりかねなかった。

中川は江戸時代の初期まで利根川の本流だった。開発以前は幾筋もの流路があって利根川の氾濫原野だった。享保21年(1727)に、古利根川の旧河道を広げるとともに整え、ここの河川改修工事を行った。亀有付近で古隅田川へと流れる川筋をまっすぐに南流するようにし、古利根川の流路を一筋にして、これを“中川”と称した。なかば、新川を開削したような工事であった。中川誕生の後は綾瀬川と相まって、舟の往き交う光景が後々まで見られるようになるのである。

利板川をはじめ、会ノ川、太日川(江戸川)、荒川、綾瀬川と150年にもおよぶ一連の河川改修工事によってしだいに水害の脅威は減っていった。

2.地名の由来

綾瀬川の東、すなわち、綾東地区といわれるこの地は、江戸時代から明治期にかけて、一般に”東淵江”という通称で呼びならされていたようである。

江戸時代に現足立区のほぼ全域が武蔵国足立郡淵江領とされ、幕府直轄の天領であったが、その淵江領の東部一帯ということで、東淵江と呼ばれていたと思われる。明治22年(1889)の町村制施行によって、大谷田村、佐野新田、長右衛門新田、蒲原村、北三谷村、普賢寺村の六力村が合併し、東淵江村が新しく、誕生している。

「谷」は「やち、やつ」と読み、低い土地を表している。大谷田は「大きな湿地帯」という、その地形からきた呼び名だったのであろう。それにしても、まさに「地名は語る」で、”淵”といい”江”といい、あるいは”谷”や”沼”の字が付く地名もあって、この地一帯がいかに川にからんだ土地であったかをうかがわせる。そもそも”足立”という名も、かつてこの土地が見渡すかぎり葦などの茂る湿地地帯であったことから「葦立」(あしだち)で”あだち”になまったものらしい。水はけのことのほか悪い土地に人々が住むようになって田を拓いていった、その並大抵ではなかったろう苦難の営みがしのばれる。

東淵江村は昭和7年(1932)、「東京市足立区」が誕生すると同時に解消され、大谷田町、普賢寺町、佐野町、北三谷町、長門町、蒲原町の六町が誕生した。旧地名が復活したのだ。ただ、長右衛門新田だけはその呼び名を改め、”長”と”門”をとって長門町とされている。また、それぞれの新田には、耕地名が付けられており、大谷田村に上、中、下、碇り、八百免、貝瀬、柳田、という名があった。大谷田上自治会の、「上」という名は、いうまでもなく、大谷田村上耕地によったものである。この六町名は44年間続き、昭和51年(1976)10月1日に新住居表示が実施され、「大谷田」「中川」「東和」「佐野」の四つの地名で整理され現在に至っている。

参考文献

「中川のほとり」大谷田上土地区画整理組合

「わたしたちの町のうつりかわり」中川東小学校・3年社会科副読本

「足立風土記地区編7東淵江」足立風土記編さん委員会

「町名のうつりかわり」

「新修足立区史」